青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年

第2部 青い風の系譜

第4話 自治の危機に、風は吹いた——宮田光秀と弁護人抜き裁判法案

昭和52年、日弁連は史上初めて、全国の弁護士の直接投票で会長を選ぶことになった。この記念すべき第一回選挙に、青風会は宮田光秀を押し立てる。相手は大阪の北尻得五郎。東西対決の全国選挙である。

だが、船出は心細いものだった。四ツ谷に構えた準備事務所を訪ねた若手会員は、後にこう書いている。

「お手伝いの先生も少なく閑散としていて、これで3ヶ月後の全国選挙は勝てるのだろうかと不安を感じた」

(青風五十年p.65)

出遅れの危機情報が伝わると、不思議なことが起きた。所属を問わず一弁の若手が自然発生的に事務所へ集まり始めたのである。彼らは修習期・クラス別の集票表を模造紙に大書して壁一面に貼り出し、日々の集票数を書き込んでいった。すると競争心に火がつき、我も我もと全国への電話が始まった。世にいう「若手選対」である。投票前日、相手陣営の幹部が漏らしたという一言が伝わっている。

「俺の処まで手が伸びている、北尻候補の負けだ」

(青風五十年p.66)

宮田は当選した。だが、この物語の要は勝利の後にある。選対を担った池田和司は、勝利の高揚のただ中で、こう恥じていた。

「政策問題への議論が全く無いままに、しかも上から決められた候補を無批判に受け容れて……単に人柄だけを強調するだけの選挙に終始した。我々一弁の若手弁護士は、この時本当に困ったし、恥ずかしかった筈である。」

(青風五十年p.67)

人柄だけの選挙でよいのか。政策を語らない派閥でよいのか——この反省は、同じ昭和52年10月、派閥の枠にとらわれない新しい集団「新進会」の創立という形で実を結ぶ。勝利と自己批判が同時に生まれた選挙だった。

宮田会長の任期は、就任早々から嵐だった。日本赤軍によるダッカ事件で超法規的措置を強いられた政府が、その約1か月後、「過激派の裁判正常化法」の構想を掲げて動き出したのである。浮上したのが、弁護人抜き裁判法案——一定の場合には弁護人不在のまま刑事法廷を開けるという、必要的弁護制度の例外を作る法案だった。

宮田は直ちに声明を発した。

「弁護人なしで刑事裁判手続を進める措置は、理由の如何を問わず、憲法の要請に真向から反する」

(百年正史p.214)

矛先が刑事裁判の枠を超えていることは、すぐに明らかになる。最高裁長官は憲法記念日の記者会見でこう言い放った。

「弁護士会ほど自由な団体はない、それが悪用されている」

(百年正史p.219)

法廷の混乱を口実に、狙われていたのは弁護士自治そのものだった。第1部で見た昭和24年の獲得から30年——自治は最大の試練を迎える。

日弁連は総力戦に入った。全国の単位会が続々と反対の意思を表明し(日弁連の記録は「五二単位会の総て」が決議や声明を発表したと総括する)、昭和53年5月には空前の規模の臨時総会が反対を決議した。

そのなかで、一弁は独特の動き方をした。少なくとも当初、決議や声明という形をとらなかったのである。当時の会史は率直に記している。

「当初から、決議や会長声明はなかったのである。それよりも局面を静かに見守りながら、会としての『意見書』を作成することの方に、大方の関心が傾いていた」

(百年正史p.215所引)

昭和53年2月に完成した一弁の意見書は、法案への強い反対を明記したうえで、懲戒手続の迅速化、国選弁護人の責任推薦、法曹三者の協議機関の設置といった建設的対案を並べた。反対の声を上げるだけでなく、批判に応える自浄の設計図を自ら示す——この「是々非々」路線は、やがて日弁連全体の路線になる。日弁連が同年3月に公表した「見解と提案」について、後の会史はこう書いた。

「弁護士界にとって死活的に重要な『弁護人抜き裁判』問題で日弁連が一弁の意見をとりいれたのである」

(百年正史p.217)

その一弁自身が、非常時のさなかにあった。昭和53年9月、入江正男会長が急逝。後を継いだ小林蝶一会長も翌年夏に世を去る。会長二人を相次いで失った一弁を、筆頭副会長として支えたのが青風会の若林秀雄だった。青風会は自治権研究の募金に会として50万円を拠出している。当の若林の言葉が残る。

「一朝有事の際は人も出すし金も出すという積極さが会のための派閥として立派に機能していることの証左と確信するが、私は、こうした機能をもつ青風会の会員であることを誇りに思っている。」

(青風三十年p.58)

決着は昭和54年3月30日に来た。法曹三者協議会での合意である。弁護士会は特別案件の国選弁護人を責任をもって推薦し、不当な訴訟活動は公正迅速に懲戒する。懲戒・綱紀の委員会には外部委員を受け入れる。その代わり、法案は動かさない——。

外部委員の受け入れは、自治の一部を差し出す苦渋の譲歩だった。当時の日弁連会長・江尻平八郎は国会の参考人席で、その決断をこう説明している。

「弁護士自治の根幹にかかわり、弁護活動に重大な制約となりかねない内容ではあるが、高度の政治的判断をも加えて、特例法案を廃案に導くためにやむを得ないのではないかと決断した」

(百年正史p.221)

昭和54年6月14日、弁護人抜き裁判法案は会期切れで廃案となった。自治は守られた。ただし無傷ではなく、国民の信頼なくして自治なし、という教訓と引き換えにである。

闘いの後にも、青風会の物語は続く。昭和55年の日弁連会長選挙では、青風会の谷川八郎の擁立をめぐって、象徴的な場面があった。青風会幹事長が、会内最大の団体である全期会の幹部たちに「旗振り役」を頼みに行ったときのことである。答えはこうだった。

「青風会が谷川先生を推し、他の会員がこれを応援するということであり……あなたが旗振り役をつとめるべきであり、そうなれば、われわれも出来るだけの協力をする」

(青風五十年p.60)

多数派は乗っ取らない。少数派に旗を持たせ、後ろから支える。谷川は無投票で当選し、二年任期制の初代日弁連会長となった。数の論理が支配しがちな派閥政治の中で、一弁の各派がこの時期に見せた呼吸を、後年の青風会員は誇りを込めて振り返っている。

「昭和47年から昭和57年までの11年間に……一弁の会長を4人と日弁連の会長を2人も輩出」

(青風五十年p.77)

数十名の派閥としては、空前の記録である。

現代への視線

危機の時に会を代表するのは、平時に数を数えていた者ではなく、理念を預かってきた者である。そして健全な多数派は、それを知っていて、少数派に旗を持たせる。旗を持たされた側の資格はただ一つ——「人も出すし金も出す」を、危機の前から実践してきたことである。

出典・注記

  • 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
  • 青風五十年=『青風―創立五十年に寄せて―』(第一東京弁護士会青風会・2001)p.60, 63-69, 77-78(宮田選挙、新進会創立、谷川擁立、輩出の記録)
  • 青風三十年=『青風―創立三十年に寄せて―』(第一東京弁護士会内青風会・1984)p.56-61(弁護人抜き法案期の一弁と青風会)
  • 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.213-222(弁護人抜き法案、一弁意見書、三者合意)
  • 「当初から、決議や会長声明はなかった……」の引用は百年正史p.215の引用形に拠る(原典は『われらの弁護士会史(増補版)』〔第一東京弁護士会・1986〕)。
  • 日弁連三十年=『日弁連三十年』(日本弁護士連合会・1981)p.273-281(反対運動の展開)
  • 引用中の「……」は中略を示す。
  • 昭和53年5月の日弁連臨時総会について、参照した史料には確定できる出席者数の記載がないため「空前の規模」とのみ記した。