青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年

第2部 青い風の系譜

第3話 数ではなく、衆望——大山菊治と富田喜作

会員百名に満たない少数派閥が、なぜ一弁会長を出し、やがて日弁連会長まで出せたのか。青風会の歴史は、この問いへの一つの回答である。

昭和27年、青風会は一弁会長候補に山崎佐を担いだ。このとき、山崎はまだ一弁の会員ですらなかった。対する第一倶楽部は、検事総長を退いたばかりの福井盛太を推してきた。青風会幹事長・阿比留兼吉は、これを正面から断っている。

「検事総長を辞めたばかりでは困る……今年は駄目だといって私ははっきりと断った」

(青風三十年p.196)

検察トップからの直行は、在野の会長としてふさわしくない——数で劣る派閥が、まず筋を通した。すると正月早々、先方の使者が山崎の自宅に乗り込み、「会長を来年に延ばせ」と迫る事件が起きる。山崎はこれを断り、青風会の新年会に自ら顔を出して支援を頼んだ。常議員会では大塚喜一郎が追及に立つ。

「正月早々乗り込んでこういうことをおっしゃったと。……ひどいじゃないかと言ったんです」

(青風三十年p.224)

選挙は山崎の勝利に終わった。圧力に屈しないこと。これが少数派の戦い方の第一条である。

昭和31年、青風会は初めて身内から一弁会長を出す。大山菊治、まだ60に手の届かない、当時としては異例の若さの会長だった。

この就任は無投票で実現した。だがその裏には、隠れた功労者がいる。対立候補になり得た酒巻弥三郎を説得して立候補を断念させた満尾叶である。

「君が立候補したら大山君に負ける」

(青風三十年p.231)

親友だからこそ言える一言だった。しかも満尾は、このとき既に青風会を去った人間である。派閥を離れてなお、人物本位で動く。記念誌は満尾を「青風会に陰の貢献をされた」人と記している。派閥の垣根より人間関係の網の目が上位にある——それが昭和の一弁の役員人事だった。

大山とは、どういう人だったか。後に大山日弁連会長の下で事務総長を務めた宮田光秀は、一言で言い表している。

「重厚にして寡黙、恰も古武士の風格を備えられ青風会の盟主的存在であった。」

(青風三十年p.40)

平井博也は、独特の比喩で書いた。

「夏の雲の軍団に、つきさすように立ち繁った、杉の古木だった。その先端を仰視すると、平衡な天秤がかかっていた。あおぎみる私は、心の平常を覚えた。」

(青風三十年p.62)

地位を求めて動く人ではなかった。だから、人が動いた。

昭和42年、青風会はその大山を日弁連会長に擁立する。全国区の選挙である。数十名の派閥に、全国を戦う組織力などあるはずもない。

ここで動いたのが、擁立を決めた昭和41年度の現職一弁会長・富田喜作だった。「信念の人、直情径行の人」と評された富田は、会長在任のまま、「毎日弁護士会へ出勤されるや否や、先生の行動一切が大山先生当選の為のことに尽きると云っても過言でなかった時期があった」(榮木忠常)。飛行機嫌いの富田は、汽車で全国を回った。各地の弁護士会連合会の大会には必ず夫人同伴で出席し、大会が終われば単位会を一つずつ挨拶に回る。同行した副会長たちは、懇親会の二次会で「下足番」の役まで務めたという。

道中には、こんな一幕もあった。広島で長老の弁護士が「候補者の大山君は何故来ないのか」と機嫌を損ねた。同行の大塚喜一郎が、大山は関東の行事を抜けられず自分が名代で参ったと平身低頭で詫びると、長老は「他ならぬ大塚君が折角来たのだから勘弁してやる」と応じて、座は大笑いになった——選挙運動というより、義理と人情の全国行脚である。

結果は、驚くべきものだった。全国の単位会すべてから推薦状が提出され(記念誌は「前代未聞の全国五二の単位会から全部推薦状が提出された」と記す)、代議員会でも満場一致で当選したのである。しかも最後の詰めまで手を抜かなかった。推薦状が50会まで集まった段階で未提出の2会が残ると、電話で口説き落として、ついに全会を揃えたのだという。記念誌はこの選挙をこう総括する。

「富田会長の献身的な、執念とも思われる絶大な陰の努力」

(青風三十年p.46)

「巻き込む」とは、声高に旗を振ることではない。頭を下げて回ることである。候補者の衆望と、支える者の無私。この二つが揃ったとき、数十名の派閥は五十二会の全国を動かした。

青風会の日常の運営にも触れておきたい。この派閥では、役員候補の推薦は総会の決議で決められた——昭和60年度の幹事長の記録には、箱根での秋季総会で翌年度副会長の推薦を決議した様子が残る。そして若手が、遠慮なくものを言う。

昭和44、45年頃の選挙対策委員会でのこと。唯一の若手委員だった山崎源三は、長老の大山から「山崎君の意見はどうか」と名指しで意見を求められた。話し合いでの穏便な決着論が大勢を占める中、山崎は、選挙をやって壊れるような派閥なら無い方がよい——あえて投票で決すべきだという趣旨の反対意見を率直に述べ、議論は全体委員会に差し戻された。若手の一言が、長老たちの議論を動かしたのである。山崎自身の回想が残っている。

「青風会は、若い人の意見をよく聞く会ですね。……昔から平気で若手が物を言える会だ」

(青風三十年p.265-266)

衆望で人を立てる派閥は、内側でも同じ原理で動く。誰の意見かではなく、何を言ったかで決まる——これが「風通しのよさ」の中身だった。

派閥は、会を割る装置ではない。危機のときには、会全体を動かす動力になる。それを証明したのが、昭和45年の分離修習阻止闘争である。

法務大臣が打ち出した志望別の分離修習構想——裁判官・検察官志望と弁護士志望を分けて修習させる案は、統一修習という戦後法曹制度の土台を覆すものだった。日弁連会長・成富信夫(一弁)は言い切った。

「こうしたコース別修習では、片輪の裁判官を作ることになる。同時にそこには官僚優越主義の露骨な表現がある」

(一弁会史p.482)

一弁では、大正12年の創立以来初めてとなる臨時総会が開かれ、反対決議が満場一致で可決された。全国では51単位会中50会が決議を挙げた。このときの一弁の姿を、青風会の記念誌はこう記す。

「戦後はじめて、全期会と既成派閥が、一体となっての反対運動であった。新・旧の派閥が、はじめて、共通の目的のために、車の両輪として作動した」

(青風三十年p.70)

構想は具体化されないまま消滅した。派閥が割拠の装置に堕ちるか、動員の動力になるかは、掲げる目的次第である——分離修習阻止は、その分水嶺を示した。

現代への視線

少数派の武器は、数合わせではない。誰が見ても立てるべき人を立て、支える者が名利を求めず頭を下げて回り、派閥の外からも敬意を集めること。「人格信用兼備の士が衆望に因り自然に之に当る」とは、要するにそういう実践の集積である。衆望は、組織の力では作れない。人が作る。

出典・注記

  • 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
  • 青風三十年=『青風―創立三十年に寄せて―』(第一東京弁護士会内青風会・1984)p.20, 34, 40-47, 62, 70, 196, 223-232, 249-250, 265-266(山崎佐擁立、大山菊治会長、日弁連会長選、会の運営、分離修習)
  • 青風五十年=『青風―創立五十年に寄せて―』(第一東京弁護士会青風会・2001)p.33-36, 53
  • 一弁会史=『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971)p.481-482, 487(成富発言・臨時総会)
  • 全期会二十年=『全期会二十年』(第一東京弁護士会全期会・1973)p.98, 271-281(50単位会の決議数・分離修習阻止の経過)
  • 引用中の「……」は中略を示す。
  • 昭和42年当時の日弁連の単位会数は51会(沖縄弁護士会の加入は昭和47年)であり、記念誌の「五二会」は後年の記憶に基づく数字とみられるため、本文は「全国の単位会すべて」とした。