青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年

第2部 青い風の系譜

第2話 一弁愚連隊——全期会の台頭と世代交代

昭和26年の春、神田神保町の小さな貸席で、ささやかな宴が開かれた。司法研修所の2期生たちが、新しく一弁に入ってきた3期生を迎えた歓迎の会である。後に一弁最大の団体となる「全期会」は、この夜を「記念すべき歴史的な発足の日」としている。

統一司法修習——裁判官も検察官も弁護士も同じ釜の飯を食って育つ、世界に例のない制度の第一世代。彼らが飛び込んだ一弁は、しかし別世界だった。先輩弁護士の「忠言」が残っている。

「大先生の事務所にはいるということは仕事を教えてもらうためである。労働の対価を要求するのは間違いである。我々の若い頃には無給で働いたものですよ」

(全期会二十年p.42)

徒弟制の残滓。そして昭和24〜25年に相次いで生まれた既成の派閥——青風会・新緑会・第一倶楽部——からの勧誘。同期の絆を頼りに身を寄せ合った彼らの動機を、当事者の一人・佐藤庄市郎は率直に語っている。

「二年間同じ釜の飯を食い、同期意識の強かった私どもにとっては容認することができなかったのであります。我々は派閥から身を守るためにも自衛手段として何らかの組織を持たなければならないという意識がそこに生れたわけであります。」

(全期会二十年p.44)

派閥から身を守るための、自衛の組織。全期会は、派閥批判から生まれた。

昭和27年2月、登録2年足らずの彼らが常議員選挙に打って出たとき、会の長老の一人はこう評した。

「一弁愚連隊と。」

(全期会二十年p.45)

愚連隊の道は、敗北から始まった。昭和27年、28年と連敗。昭和29年にようやく初当選を出し、31年には4名、32年には5名全員が高点当選する。勢いに乗る若手を、長老たちは制度で迎え撃った。

昭和31年11月の臨時総会。前年度の副会長・監事は選挙を経ずに当然常議員となる——若手の進出を薄める会則改正が可決された。総会前日までその動きを知らされてもいなかった塚田喜一は、後にこう書いている。

「われわれは手もなく敗れ去ったが、そのショックは後の全期会の形成に長く大きな影響を与えたと思う。……恐らく全期会が単なる同窓会ではなく、組織としてそれ以上の活動をするようになったのはこの事件がきっかけになったと思う。」

(全期会二十年p.52-53)

「当時私達は弁護士会の内部では、会の長老や、その他の年輩の会員にとり、一種の異民族のような存在であり、気心の知れない、無礼な若僧の集まりと考えられたろうと思う。」

(同p.53-54)

役員選挙制度の改正論争でも、屈辱は続く。委員会で反対意見を述べた塚田に、一人の委員が、皆に聞こえる声で独り言を言った。

「浅学非才のものがなあ」

(全期会二十年p.55)

塚田は後年、「浅学の事実は認めるが、非才の点は争う」と冗談にしてみせたが、当時の仲間内では、敗れるようなことになれば「一同集団で脱会し、東弁にでも行こう」とまで話し合ったという。

だが彼らは、脱会もしなければ、正面衝突もしなかった。各派が事前に候補者数を調整すれば醜い選挙戦はなくなる——という妥協案を自ら出して制度化させ、後年、その調整機関が会長職の派閥持ち回りという新たな弊害を生むと見るや、今度は自らの手で廃止を提案する。制度を憎まず、制度を作り直す。この往復運動こそ、全期会が一弁に持ち込んだ新しい流儀だった。

昭和42年2月15日。全期会の歴史で「完勝」と呼ばれる副会長選挙の日である。

前年、彼らは2名を擁立して大敗し、会内には「全期崩壊か」の囁きが流れていた。捲土重来の2名擁立——吉本英雄と矢吹重政。選対委員長の佐藤庄市郎は、新年の会合で檄を飛ばした。

「問題は、二名当選するかどうかではなく、他候補を断然引離すことができるかどうかである」

(全期会二十年p.113)

轟然たる拍手。そして投票5日前の2月10日夜半、東京に十数年ぶりの大雪が降る。既成三派が得意とする個別訪問の組織戦は雪に封じられた。記念誌は正直に書いている——「全期会は、この大雪に感謝し内心ひそかに快哉を叫んだ」。

投票日。有権者794名のうち698名が投票、投票率87%。結果は吉本323票、矢吹302票で1位・2位を独占。第一倶楽部の武田275票、青風会の辻村231票、新緑会の天野230票——最後の当選者となった辻村と、次点で涙をのんだ天野の差は、わずか1票だった。

その日、会館の玄関には一人の若い弁護士が立っていた。対立候補の息子である18期の武田峯生が、寒風の中、来館する会員一人ひとりに黙って頭を下げ、父への支持を無言で訴え続けていたのである。勝者の歓喜と敗者の礼節。選挙とは、こういうものだ。

だが、この物語の白眉は勝利そのものではない。勝者たちが残した言葉である。

選挙戦の檄文を起草した深沢守は、勝利の後の心境をこう書き残した。

「私は、選挙後暫くの間、泥酔した夜が明けた翌朝のような空虚な味気ない思いにさいなまれたものであった。選挙が終ってみれば、新緑会も青風会も第一クラブもない、みな親切な諸先生であり……所詮コップの中の嵐であったのか。私は、選挙中声を枯らして叫んだ『一弁の封建性』や『既成三派の横暴』の言葉を反芻して、内心なんとも気恥しい思いにかられたことを正直に告白する。」

(全期会二十年p.120)

さらに創立20周年の座談会(昭和47年)では、全期会が初めて内部選挙で副会長候補を選んだ経験を踏まえて、中根宏がこう警告している。

「徒党を組めば絶対強いんです。……そういうことが有利であるということがだんだんわかってきますと、やはり徒党ができてしまう。そうするとそれは単なる研究的なグループとかそういうものではなくて、弊害の多い派閥ができてしまうんじゃないか。ですからこれはむしろできないようにけん制していくべきじゃないか。」

(全期会二十年p.410-411)

派閥から身を守るために生まれた集団が、一弁最大の勢力になる。そのパラドックスを、当事者たちは勝利の絶頂で既に自覚していた。数を持った集団に必要なのは、勝ち方の作法と、自己抑制である。

現代への視線

「数の力」は必ず勝つ。徒党を組めば絶対に強い——それを一番よく知っていたのは、数の力で勝った当人たちだった。だからこそ彼らは、勝った制度を自分で壊し、内部に派閥が生まれることを警戒し続けた。多数派の品格とは、力を持った者が力の使い方を自分で縛れるかどうかで決まる。

出典・注記

  • 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
  • 全期会二十年=『全期会二十年』(第一東京弁護士会全期会・1973)p.41-60, 79-82, 108-120, 386-413(発足、常議員選挙、勅選常議員事件、役員選挙制度論争、昭和42年副会長選挙、20周年座談会)
  • 引用中の「……」は中略を示す。
  • 全期会の名は司法研修所長の命名による(同書p.45, 372)。