青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年

第2部 青い風の系譜

第5話 風はどこへ——派閥の黄昏と残された問い

昭和57年、青風会は再び一弁会長選挙を戦った。候補は設楽敏男。会内では倉田雅充・原秀男と並んで「ご三家」と呼ばれた一人である。倉田・原の両者に立候補の意思がないと確かめられての出馬だった。設楽は後年、二人の身の処し方をこう書いている。

「倉田、原両氏の姿勢は和と親睦を重視する青風会の姿勢そのものであり、感銘深きものがあった。」

(青風五十年p.43)

この選挙で、一人の老弁護士が黙々と働いた。簡易裁判所判事を70歳の定年で退官し、弁護士に転じてまだ数年の74歳、斎藤寿郎である。判検事出身の会員たちに宛てて長文の推薦状を自ら書き、各方面に働きかけた。新参の高齢会員をそこまで動かしたものは何か。本人の言葉がある。

「私よりも遙かに年長の阿比留先生が、自ら陣頭に立たれて……全力を傾注されていた、ただただ頭の下がる思いのしたその行動的な姿勢」

(青風三十年p.93)

創立会員の阿比留兼吉、このとき既に80代半ばを過ぎていた。最長老が誰より先に動く派閥の姿が、来て間もない者の心を動かした。結果は275票差の圧勝。婿として選挙を間近に見た阪本清は書いている。

「我が青風会は最早多数派でも、最強派閥でもありませんが、長老から侍大将、中堅、若手に至るまで、一つの目的にむかって、結束を固くし、一丸となってことにあたる、強い縦横の友情と仲間愛で結ばれた魅力ある集団であるとの確信をもちました。」

(青風三十年p.84)

派閥とは、突き詰めれば「人が人のために働く理由」の集積である。この選挙は、その最後の輝きの一つだった。

政策の面でも、この時期の一弁派閥政治は成熟を見せた。昭和60〜61年の外国弁護士問題である。

日米経済摩擦を背景に、外国弁護士の受け入れは待ったなしの外圧となっていた。弁護士会が拒めば、監督官庁の異なる「外弁」制度を作られかねない緊迫した局面で、一弁は青風会選出の副会長たち——舘孫蔵、大西昭一郎——が連年この難題を担った。会内の合意形成は割れてもおかしくなかったが、総会は乗り切られた。舘の回想である。

「一弁では、青風会の先生方のご尽力も得て、委任状も含めて70%の先生方のご賛成を得られ、総会においても当会の先生方の一致団結した行動により執行部を支えていただいた。まことに『良識の府一弁』の感をあらためてもらった次第である。」

(青風五十年p.47)

続く弁護士広告規制の緩和論議では、昭和61年12月に会内シンポジウムが開かれ、「当時の会館の講堂が埋めつくされるほどの会員が参加され熱心に議論された」(大西昭一郎)。派閥が政策論議の受け皿として機能する——外弁問題は、その手応えが確かにあった時代の記録である。

だが、風向きは変わっていく。

かつての会長選挙には、世代の熱があった。昭和43年度の梶谷丈夫の選挙がそうである。所属派閥の長老に「梶谷は会長にはしない」と言われ、かねて派閥を退会していた梶谷は、門弟とともに出馬し、466票対255票で圧勝した。息子の梶谷剛は、この選挙を「既成派閥盥回し人事への挑戦と若手の多くの結集という側面があり、一弁の歴史の中でも重要な契機」と位置づけている。順送り人事への異議申立てとして、選挙が生きていた時代だった。

しかし平成に入り、会員数が数千人規模に膨張すると、光景は一変する。新入会員にとって、全期会は「自動的に入る同窓会」となり、派閥はそもそも無関係な存在になった。他派閥の重鎮は、令和になってこう書いている。

「現在、一弁の会員数が大幅に増え……従前のような会派の影響力は縮小している」

(百年外史p.75)

それでも、風が完全に死んだわけではない。平成16年、一弁は20年余りの空白を破って日弁連会長を出した。梶谷丈夫のあの選挙を、父の傍らで手伝った新米弁護士——息子の梶谷剛である。出馬を決めた心境を、本人はこう振り返っている。

「一弁の有力な方々から強い慫慂があり、私自身、長く取り組んだ司法制度改革の仕上げの時期に力を注ぎたいとの思いもあり、また久しぶりに会長を出すことが、一弁がより積極的に日弁連活動に参画する契機となって欲しいと願った」

(百年正史p.405)

推されて、会のために立つ。そして全国選挙の指揮を執ったのは、一弁会長を務め、後に最高裁判事に就任する中川了滋である。梶谷剛の回想が残る。

「特に中川了滋さんが全体の指揮を執られ、星徳行さんと奈良道博さんが指令塔と実行部隊長として厳しい差配をされました。真夜中の2時、3時までも選挙事務所に残って検討をしていたことも多々あったようです」

(百年外史p.68)

一弁が燃えてくれた、と梶谷剛は言う。宮田選挙の若手選対から27年。派閥の求心力が薄れた時代にも、会を挙げるべき大一番で人が黙って持ち場につく——その会風は、まだ生きていた。

この変化を、青風会は自分の言葉で語り続けた。記念誌に刻まれた自省の声を並べてみる。

多数派の壁について——「私は、青風会員だというだけで、一遍も同期から一弁の各種委員に推薦されたことがない。」(山崎源三)

自らの体質について——「青風会の『選挙と葬儀には強い』と言われた……体質」(米林和吉)

新規加入について——「私自身の意思とは無関係なところで私も青風会員にさせられたというのが、当初の間の偽らざる気持でした。そして、現在でも自ら進んで青風会に入会しようと思われる若い方がどれくらい居られるだろうかと心配いたしておるところではありました」(藤本猛)

人材について——「正直言って青風会は人材が乏しい。……本当に、将来のある派閥にするには、その辺に何かメスを入れないと弱体化してしまう。」(池田和司)

政策について——「一弁の場合、政策集団的なものがない。……長期的展望に立った意見というものが出ない」(城山忠人)

甘い自画自賛は、どこにもない。派閥の記念誌に、ここまで率直な自己批判を載せる——それ自体が、青風会が「風通し」を建前で終わらせなかった証拠でもある。

そして彼らは、処方箋も書き残していた。

派閥は政策を議論し、それを会の委員会に反映させる存在であるべきだ——平成期の会員たちは、そう繰り返し説いた。一弁初の女性副会長となった保田眞紀子は、五十周年記念誌にこう書いている。

「青風会が選出した理事者をバックアップするために、青風会の意見を提言できるよう平成9年度幹事が実行された政策勉強会を充実発展させようではありませんか。青風会会員の一弁会長・日弁連会長を近い将来実現させるためにも、必要不可欠と考えるのです。」

(青風五十年p.96)

そして、五十周年の総括として倉田雅充が書いた一文は、発会の日の理念にまっすぐ戻っていく。

「原点に戻り発会の理念を確認し、第一東京弁護士会創立の精神を遵守し、醜陋なる役員選挙を排し、真に人格識見共に優れた方が会員の衆望を担って役員に就任することに努めなければならないものと信ずる。」

(青風五十年p.37)

ここまで読んできた読者には、一つの疑問が残るはずである。「醜陋なる役員選挙競争の如きは絶対に之を避け」——あの告示は、選挙そのものを禁じているのか。

そうではない、というのがこの連載の読み方である。告示が禁じたのは「醜陋なる競争」であって、選挙ではない。衆望原則の目的は人事の正統性であり、無投票はその手段にすぎない。だから、無投票が密室の談合や順送りの隠れ蓑になったとき——衆望を確認する手続そのものが壊れたとき——選挙はむしろ、告示の精神に適う唯一の道になる。この連載が描いてきた75年の派閥史のなかで、肯定的に記憶されている選挙は、すべてこの型だった。

では、いつ選挙に及んでよいのか。歴史から、五つの条件を取り出してみる。

第一に、衆望を確認する手続が壊れていること。 候補者の選考が密室で行われ、意見を聴く相手が恣意的に選別され、結論ありきで進むなら、選挙は衆望を測り直す最後の計器になる。「既成派閥盥回し人事への挑戦」と記憶される梶谷丈夫の選挙が、その先例である。

第二に、理念と政策の実質的な対立があること。 会の進路に関わる争点があってこそ、選挙は「人の優劣」ではなく「路線の選択」になる。争点なき順番争いの選挙は無意義であり、同期のしこりだけを残す——それは選挙を戦った当事者たち自身が、繰り返し証言してきたことである。

第三に、選挙によらない手段を尽くしたこと。 話し合い、正規の異議申立て、選考のやり直しの要求。「会内ノ問題ハ会内ニ於テ解決スル」という有馬忠三郎の順序を、まず踏む。それでも容れられなかったときに、初めて計器を持ち出す。

第四に、候補者が「推されて立つ者」であること。 地位を求める者の出馬ではなく、相当数の会員の要請に応える立候補であること。昭和25年の一弁役員選挙規則が会員連署による推薦届出制を採ったのは、この思想の制度化にほかならない。

第五に、敗れても会が壊れない覚悟があること。 選挙をやって壊れるような派閥なら無い方がよい——若き日の山崎源三が長老たちの前で言い放った逆説は、選挙という試練に耐える設計を先に用意せよ、という意味でもある。

そして、選挙に及んだならば、守るべき作法がある。

政策を文書で公表し、公開の討論で争うこと。人柄だけを称え合う選挙への恥辱——新進会を生んだあの反省——を繰り返さないこと。批判は事実と法理でのみ行い、人格攻撃と怪文書を排すること。金と饗応を排し、費用を透明にすること。資力の多寡が立候補の資格を左右するようでは、衆望はカネで買えるものに堕ちる。ボスとイソ弁の間柄のような、断りにくい力関係を通じた動員をしないこと。ルールを事前に明示し、中立の管理の下で争うこと。そして選挙を、若手を含む全会員が会の進路を考える熟議の機会に転化すること——選挙のおかげで若い会員の意見を聞き、議論ができた、という梶谷玄(梶谷剛の兄。平成5年度、自らも選挙で一弁会長となり、後に最高裁判事を務めた)の総括を、目標の水準とすることである。

最後に、ノーサイド。結果には僅差でも服し、蒸し返さず、敗者への報復人事をせず、勝者は敗者側の優れた政策を取り込む。選挙の後に「所詮コップの中の嵐であったのか」と正直に空虚を告白した深沢守と、寒風の玄関で頭を下げ続けた武田峯生——勝ち方と負け方の作法は、既にこの歴史の中に書かれている。

要するに、「醜陋」の反対語は「無選挙」ではない。「公明」である。 衆望は、密室では測れない。公開の討議によってのみ測られる。

ところで、本話が繰り返し立ち返ってきた「原点」——第一東京弁護士会の創立の精神——には、それを一篇に凝縮した文章がある。原嘉道の「第一東京弁護士会記」である。

昭和6年4月、一弁と帝国弁護士会は上野精養軒で「原・花井両博士表彰式」を開き、多年の功績を謝して両人の胸像を贈った。二人は返礼として大量の法律図書を会に寄贈したが、そのとき、会員の間に別の注文があることを知る。会の創立事情を書き残してほしい、という注文である。二人は他日これを書くと約したが、その年の暮れ、花井卓蔵が急逝した。約束は原ひとりの肩に残り、翌昭和7年、原は筆を執って会に届けた。文章はただちに額装され、会館の壁に掲げられた。今も、一弁の理事者室に掲げられている。全文を掲げる。

第一東京弁護士会記

第一東京弁護士会は大正十二年五月八日 我同志三百八十五人に依り設立せらる

顧みれば当時我同志の属したる弁護士会は会員実に二千余の多きに達し 従て思想感情を異にするもの簇生し 剛健中正の道義的精神は漸次衰頽し 内平和を欠き外軽侮を招かんとするに至る 我同志は深く之を憂ひ更に一の弁護士会を組織し其儀容を新にし 以て弁護士本来の面目を保持せんとせり 而して其希望は帝国議会並に司法当局の容るる所となり弁護士法の改正行はれ本会設立の認可を見るに至れり

惟ふに弁護士会は法律的団体なりと雖も道義的精神に拠り結合するにあらざれば久遠の安固進展を期すへからす 是故に我会員は当初より徳性を磨励し謙譲抑損と和衷協同とを以て事に従ひ風気愈々敦厚に趣けり 従て己を省みすして人を責め義務を等閑にして権利を妄張し名利之れ事とし相互の融合を毀傷せんとする如きものを見す 是の如きは独り本会樹立の精神を発揮するのみならす又以て一般団体の模範たるに足らん 是れ余か素願の存する所にして中心の欣快これに加ふるものなし

本会樹立以来茲に十年 会員中其由来と伝統的精神とを明かにせんと欲する者尠からす 余か樹立の事に鞅掌し最先の会長たりしの故を以て文を徴す 因て僭越を顧みす之か記を作ると云ふ

昭和七年三月十五日

原 嘉道

日付は3月15日。九年前のこの日、一弁を生んだ弁護士法改正案が貴族院を通過している——のちの創立記念日である。五十年史の編纂者たちは、この文章を設立時に書かれるべくして書かれなかった「立党宣言」と呼び、こう書き添えた。「第一東京弁護士会ではこれを会の原点として、その精神を先達から後進へ、古参会員から新入会員へと言い送って今日に至っている」。

思想感情を異にする者が簇生し、道義的精神が衰頽し、内に平和を欠き、外に軽侮を招く——会記が描く「当時」の光景を、令和の読者はどう読むだろうか。器の大小も時代も違う。だが、器が道義を失ったときに人は何をすべきか。原嘉道の答えは、百年前から明快である。

派閥が理念を語らなくなったとき、残るのは人事の調整機構だけである。調整機構は、誰のために回るのか。衆望によらない人事は、何によって正統性を持つのか。

清風荘の初夏から75年。「青い風」は、いま誰の胸の中に吹いているだろうか——その問いを持ったまま、舞台を現代に移す。弁護士と弁護士会そのものが、かつてない構造変化の中にある(第3部へ続く)。

現代への視線

(本話は結び自体が現代への問いであるため、付記を置かない。)

出典・注記

  • 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
  • 青風五十年=『青風―創立五十年に寄せて―』(第一東京弁護士会青風会・2001)p.33-34, 37, 43, 47, 52-57, 77-96(設楽選挙、外弁問題、自省と処方箋の各証言)
  • 青風三十年=『青風―創立三十年に寄せて―』(第一東京弁護士会内青風会・1984)p.84, 92-93, 256-276(斎藤寿郎・阪本清の回想、座談会)
  • 百年外史=『第一東京弁護士会 100周年外史』(第一東京弁護士会・2023)p.19-24, 58-70, 73-75(梶谷丈夫の選挙、梶谷玄・梶谷剛の回想、平成16年日弁連会長選挙、派閥の影響力縮小)
  • 梶谷剛の出馬の弁は百年正史p.405の引用形に拠る(原話は百年外史p.68のインタビュー)。梶谷玄・中川了滋の最高裁判事就任(平成11年・平成17年)は百年正史巻末年表による。
  • 結びの選挙論で言及した各エピソードの出典: 昭和25年役員選挙規則は百年正史(『われらの弁護士会史 創立百年正史』第一東京弁護士会・2023)p.145-147、有馬忠三郎の申入れは第2部第1話、山崎源三の発言は第2部第3話、深沢守・武田峯生は第2部第2話の各出典欄を参照。
  • 引用中の「……」は中略を示す。
  • 一弁会史=『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971)。「第一東京弁護士会記」全文と成立事情は同書p.103-106の全文転記に拠り、判読上明らかな誤りは文意に従って補正した(うち「衰頽」「磨励」は百年正史p.4-5の引用文とも照合した)。仮名遣い・分かち書きは原文転記のまま。現在も理事者室に掲げられていることは百年正史p.4にも記述がある。
  • 本話の結びの選挙論は、本編で描いた歴史からの帰納として書き下ろした論説である。