青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年

第2部 青い風の系譜

第1話 清風荘の初夏——派閥の誕生

弁護士自治を勝ち取ったまさにその年、第一東京弁護士会は、一つの綱紀問題で真っ二つに割れていた。

発端は寿産院事件である。戦後の食糧難のさなか、預かった乳児84名が死んだとされる事件の公判をめぐり、一弁会員で代議士でもある大滝弁護士に、偽造診断書の行使と、検事総長・司法大臣への口利きの疑惑が浮上した。会の弁護士粛正委員会は委員を増員して調査に当たり、委員たちは小菅刑務所まで出向いて当事者本人から直接事情を聴くという徹底ぶりだった。

昭和24年3月30日、臨時常議員会。無記名投票の結果は16対3——大滝を退会させる決議だった。だがこの決議が、会を二分する。有馬忠三郎ら130余名の会員から懇話会の開催を求める要請書が出され、約70名からは決議への異議申立てが出た。有馬は仲裁に立ち、その申入れにはこうある。

「本会創立以来ノ不祥事ニ迄発展セントスル懸念アリ」「会内ノ問題ハ会内ニ於テ解決スルコトトシタク」

(青風五十年p.29)

結末は、現行弁護士法施行のわずか3日前。退会届の提出と同時に再入会を許可するという、玉虫色の裁定だった。当事者の一人、倉田雅充は後年書き残している。

「大滝問題は、以上の如き経緯で表面的には円満解決したものの、会内の総べてが氷解したのではなかった。」

(青風五十年p.31)

氷解しなかったものが、形になった。

擁護派は「第一倶楽部」を結成し、一時は200名を超える大勢力に膨れ上がった。官立大学出身の「正義派」は緑会を改組して新緑会を作った。そして昭和25年の初夏、私立大学出身者を根幹とする正義派の数十名が、神田駿河台の旧西園寺公望邸「清風荘」に集まる。

料理屋が使えなかった時代である。会場は大学から借り、酌は中央大学の女子学生に頼んだ。出席者の一人、大塚喜一郎は笑いながら回想している。

「あとで、女子学生をサービスに使うとはけしからん、という大学の先輩からお話がありましたが、まあ、えへへと笑って済ました」

(青風三十年p.151)

会の名は「青風会」と決まった。由来には二つの説が記念誌に残る。会場の名「清風」からさんずいを削ったという説と、西園寺公の興津の本邸が「青風荘」と呼ばれていたことにちなむという説である。出席者の回想によれば「この会は清々しく風通しよくやってゆくのであるから『青』をとって」という理由づけもあり、「理由づけは違っていたが、満場一致で青風会の名称でまとまった」という。

彼らは何のために集まったのか。創立期の会員の言葉が、それを端的に語っている。

「一弁の人事はこの二大グループによって、ろう断され、目に余るものがあったので、これを排撃し、一弁人事の公正を期する目的で有志により結成されたのが青風会である。」

(藤井暹・青風三十年p.36)

大塚喜一郎は、もっと率直だった。

「大滝問題だけで終わったんなら、あるいは青風会できなかったのかもしれない。……ぼくは大滝問題はけしからんと思ったけど、それだからというよりむしろ、この調子で会の運営をやられたらたまらんという気持ちが多かったですよ。それが人の集まった最大公約数だと思います。」

(青風三十年p.219)

注目すべきは、この会が綱領を作らなかったことである。

「文章に書いて、肩をいからしてやるような意味の政策綱領というものはないわけです。しかし、何となしにフワッとして、弁護士会の精神に沿ってよくやっていくと、これは動かないわけですね。」

(大塚・青風三十年p.215)

政策文書ではなく、気風。規約ではなく、信頼。青風会は最初から、選挙マシンではなく「会運営の公正」を求める運動体として設計されていた。

同じ「正義派」から生まれた官学系の新緑会とは、以後半世紀にわたる提携関係が始まる。五十年誌は端的に記す——「同じ正義派に属する私立大学出身者を根幹として青風会を発会し、爾後、同じ正義派であった因縁から新緑会と青風会は相提携して第一クラブに対抗することになったのである。」誕生の瞬間の対立構図が、その後の一弁派閥政治の基本形をかたち作った。

だが時代は、派閥を選挙へと引きずり出す。

昭和26年2月の一弁会長選挙。寿産院事件関連の除名問題を争点に、木村篤太郎を第一倶楽部が、小林一郎を新緑会と青風会が推して激突した。当時を知る会員・佐藤庄市郎の回想である。

「開催場所の一弁講堂を閉鎖して人数を確認しようとすると、裁判所から帰ってきた会員がドンドンとドアを叩いて『ドアを開けろ』と怒鳴る一方……怒号が入り乱れて大変険悪な雰囲気の選挙になった」

(百年外史p.4)

そして——「この選挙がきっかけで各会派が選挙母体として表面に出てきて感情的対立が先鋭化した」。

一弁の「派閥の時代」は、こうして幕を開けた。「醜陋なる役員選挙競争」を避けよという会の告示(昭和8年)から、わずか18年後のことである。

この光景は、もう一つの団体の誕生も準備していた。折しも一弁に入り始めていた司法研修所出身の若手たちは、各派閥から勧誘を受け、中には事務所のボスとの関係で否応なく引き込まれる者もいた。感情的対立の渦に巻き込まれることを嫌った彼らが「会派を超えて同期の仲間は仲間として仲良くしよう」と身を寄せ合ったところから、次話で描く全期会が生まれてくる。派閥の先鋭化そのものが、反派閥の結社を生む——歴史の弁証法である。

ここで、一弁の入会宣誓の一節を引いておきたい。青風会の会員が、のちのちまで自分たちの拠り所として引用し続けた文章である。

「弁護士は知識階級の首位たるものなることを忘れず醜陋なる役員選挙競争の如きは絶対に之を避け本会諸般の会務は人格信用兼備の士が衆望に因り自然に之に当る慣例を尊重すべきこと」

役員は、選挙戦で奪い取るものではない。人格と信用を兼ね備えた人が、衆望によって自然に就くものだ——この一文を、現実の派閥政治の中でどう実質化するか。青風会とは、その問いを背負うために生まれた派閥だった。

派閥の原罪は「派閥であること」ではない。何のために結ばれたのかを忘れたときに、派閥は原点への裏切りを始める。青風会の75年の歴史は、その緊張の歴史である。

現代への視線

団体は、必ず「何かへの怒り」から生まれる。だが怒りは冷める。冷めた後に団体を支えるのは、発会の日に交わされた理念だけである。青風会の発会の日、清風荘に集まった数十名が確認したのは、綱領ではなく「清々しく、風通しよく」という気風だった——気風は、綱領より長持ちする。

出典・注記

  • 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
  • 青風五十年=『青風―創立五十年に寄せて―』(第一東京弁護士会青風会・2001)p.20-37, 170(寿産院事件・大滝問題の経緯、発会、会名の由来、宣誓文)
  • 青風三十年=『青風―創立三十年に寄せて―』(第一東京弁護士会内青風会・1984)p.34-36, 151, 185, 203, 210-224(発会の情景、藤井暹・大塚喜一郎の証言)
  • 百年外史=『第一東京弁護士会 100周年外史』(第一東京弁護士会・2023)p.4-5(昭和26年会長選挙の回想)
  • 引用中の「……」は中略を示す。
  • 発会時の出席者数は証言により幅がある(30〜40名前後とするものが複数、より少数とする回想もある)ため「数十名」とした。
  • 引用した告示(宣誓文)は昭和8年制定の「新入会員ニ告ク」の一節(『われらの弁護士会史』〔第一東京弁護士会・1971〕p.209。表記は青風五十年p.170所引の現代仮名版に拠る)。
  • 新緑会と青風会の結成の先後は史料により記述が分かれる(本文は五十年誌の記述に拠った)。