青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年
第1部 三百代言と呼ばれて
第4話 暗い時代の胆力——戦時体制と抵抗した少数者
昭和7年11月、大審院の法廷。思想事件弁護の第一人者・布施辰治の懲戒控訴審は、異様な結末を迎えた。
裁判所は先の期日まで日程を指定しておきながら、突如弁論を打ち切った。そして休廷からわずか5分後に入廷し、判決を言い渡したのである——「被告の控訴はこれを棄却す」。
「被告布施、河合、蓬田両弁護人何れも、裁判長々々と呼び発言を求めたるも、裁判長これに応ぜずして陪席判事、立会検事と共に退廷」
弁護人に名を連ねた90名の抗弁も空しく、布施の除名は確定した。罪状の実質は、三・一五事件の法廷で権力と闘いすぎたことである。翌昭和8年9月1日の早朝には、人権派弁護士の一斉検挙が行われ、布施も上村進も、組織的な人権弁護の担い手たちがまとめて獄につながれた。弁護権そのものが、法廷から奪われた時代の始まりだった。
制度の上でも、前進と停滞が同居していた。昭和8年に成立した旧弁護士法は、職務範囲を「一般ノ法律事務」に広げ、弁護士試補制度を設け、そして初めて女性に弁護士への道を開いた。だが最大の課題だった自治は実現しない。監督権者が検事正から司法大臣に「格上げ」されただけで、懲戒の権限は依然として裁判所の懲戒裁判所にあり、会則の認可ひとつにも司法省が細かく修正を命じてきた。
在野の悲願だった法曹一元——裁判官・検察官を弁護士経験者から任用する制度——は、昭和11年の全国弁護士大会で満場一致の決議となる。
「司法官タル資格ハ之ヲ十年以上弁護士ノ職ニ在ル者ニ限ル制度ヲ確立スヘシ」
昭和13年には、要件を「弁護士経験3年以上」に緩めた法曹議員連盟の法案が、ついに衆議院を通過するところまで漕ぎつけた。だが貴族院で会期満了、廃案。翌年も、翌々年も同じ運命をたどった。同じ議会で国家総動員法が成立していたことが、時代のすべてを物語る。後の会史は総括する。
「軍国主義体制と天皇官僚国家体制は、はるかに巨大な抗すべからざるごとき波濤であり、この荒波の中に一元法案はついに没し去ったのである」
その荒波の中で、法律家の論理だけを武器に立った男がいる。岩田宙造である。
昭和15年10月に発足した大政翼賛会は、「党」でも「運動」でもない正体不明の組織のまま、議会局を通じて立法機関まで翼下に収めようとしていた。貴衆両院で翼賛会の性格を問う質問が相次ぐなか、最も痛烈な批判を放ったのが岩田だった。衝いたのは、ただ一点である。
「大政翼賛会と云ふものが、法令に何等基く所がない。国民の組織を根柢から覆へし、根柢から新たにするやうな仕事を目標として起った此の大組織が、憲法に何等依らないのである。……これが許されるものであると云ふことは、どうしても私共了解が出来ない」
(百年正史p.108)
憲法に根拠のない機関が国政を動かしてよいのか。政事結社なら軍人・官吏は入れないはずではないか。追及は内務大臣から「翼賛会は政事結社ではなく公事結社である」という言質を引き出し、翼賛会は昭和16年4月、議会局・政策局の廃止に追い込まれた。
同じ月、岩田は帝国弁護士会の通常総会に一本の決議を提案する。「国防国家ノ建設ハ朝野協力厳ニ憲法ノ条規ヲ遵守シテ之ヲ行フコトヲ要ス」。国防国家の建設それ自体には異を唱えない。ただし、憲法を守って行え——それが軍部全盛の時代に公にできる、ぎりぎりの抵抗線だった。提案理由で岩田は言い切っている。
「若し然らずとせば法規に依らざる巧妙なる手段を設け重要な政治を行ひ、以て想像するだに恐るべき幕府的勢力の出現を見る危険あることは説明するまでもない」
(一弁会史p.308)
幕府的勢力——軍部を指すことは、誰の目にも明らかだった。
だが時代は、弁護士の職業そのものを呑み込んでいく。
昭和16年、全面改正治安維持法と国防保安法は、これらの事件の弁護人を「司法大臣があらかじめ指定した弁護士」に限定した。指定から排除される者の基準は、規程にこうある。
「思想、経歴其ノ他ノ事由ニ因リ指定ヲ適当ナラスト認ムル者」
思想で弁護人を選別する。指定されたのは全国で693名——東京弁護士会74名、第一東京弁護士会68名、第二東京弁護士会21名。弁護の現場がどうなったかを、後の記録は伝えている。
「非常時下、決戦体制下に罪を犯す者は国賊であり、国賊を弁護する必要はないという考え方が強力になり、裁判以前に国賊にされ、弁護は不十分となり、熱心な弁護活動をする弁護士は、却って時局非協力とされた」
そして昭和19年2月17日、丸の内の大東亜会館。司法大臣、大審院長、検事総長、翼賛会幹部が居並ぶ中、全国の弁護士を一つに統合する「大日本弁護士報国会」の結成式が挙行された。その名称からして、「翼賛的な意味を取入れた方がよい」という司法大臣との相談で決まったものだった。当時の新聞は書いている。
「全国六千の弁護士がこれまでのいわゆる弁護士臭を脱ぎすて……すでに第一東京弁護士会(会員約四百五十名)を除く東京、第二東京以下全国五十一団体五千五百名が参加」
——「第一東京弁護士会を除く」。
全国五十余団体が雪崩を打つ中、一弁だけが最後まで加入を拒んだ。前年5月、一弁が帝国弁護士会とともに合同の委員会で決めた声明が、その理由を残している。
「本会ハ結合既ニ久シキ同志ノ団体ニシテ……今茲ニ新タナル統合団体ヲ結成シテ屋上ニ屋ヲ架スルノ要アルヲ認メザルナリ。現下ノ要求ハ形式的整理ニ在ラズシテ内容ノ充実ニ存ス」
勇ましい抵抗の言葉ではない。屋上屋は要らぬ、という乾いた論理である。だが全員が同じ方向へ走る時代に、一会だけが立ち止まる——それがどれほどの胆力を要したかは、明治29年以来の歴史を持つ日本弁護士協会さえこの年に解散へ追い込まれた事実が、静かに証明している。
もう一つ、書き残しておくべきことがある。帝国弁護士会は昭和15年秋、委員100名を全国に分散派遣して民情を調査し、翌16年1月、その報告書を政府に提出した。翼賛の大合唱の裏側で、国民が何を思っているか。報告書は臆さず書いた。
「徒に滅私奉公を説き一億一心を称へ、違失を責むるに急なるものの如し。為めに、新体制に対する国民思想の動向未だ必ずしも帰一するに至らず、怨嗟の声は必ずしも鮮しと云ふべからず」
事実を調べ、事実を書く。米騒動の調査から二十余年、暗黒の時代にあってもこの職業倫理は死ななかった。
現代への視線
「長いものに巻かれない」とは、威勢のよい言葉を叫ぶことではない。法の論理と事実の調査だけを武器に、大勢が一方向へ走るとき一人立ち止まる胆力のことである。翼賛国会で最も痛烈な批判を放った岩田も、報国会への合流を拒んだ一弁も、声高ではなかった。ただ、筋を曲げなかった。
出典・注記
- 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
- 東弁百年史=『東京弁護士会百年史』(東京弁護士会・1980)p.411-413, 432-434, 469-470, 492-510, 534-544(布施事件、昭和8年法、指定弁護士、報国会、法曹一元運動)
- 一弁会史=『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971)p.299, 306-318(岩田の翼賛会追及、帝国弁護士会決議、一弁の不参加声明、民情調査)
- 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.84, 108-112
- 引用中の「……」は中略を示す。
- 岩田の翼賛会追及は第76議会(昭和15年末開会)の貴族院予算委員会、帝国弁護士会決議は昭和16年4月25日の通常総会。「国賊」の引用は『日本弁護士沿革史』(百年正史p.109-110所引)。
- 昭和18年5月24日の声明は、一弁(委員38名)と帝国弁護士会(委員20名)の合同対策委員会で決定されたもの(一弁会史p.317)。