青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年
第1部 三百代言と呼ばれて
第1話 青銭三百文——蔑まれた代言人
はじめに、お詫びを申し上げます。本編には、ご存命の先生方を含め、深い尊敬を捧げるべき多くの先達が登場します。本来であればお一人おひとりに敬称を付して記すべきところ、歴史読み物としての性格上、敬称を略して書き進めることを、どうかお許しください。
その試験問題が読み上げられたとき、会場の空気が凍りついた。
「三業組合の規則を心得居るや」
三業とは、女郎屋、引手茶屋、そして女郎のことである。明治9年4月10日、東京府が実施した最初の代言人検査。集まった30名の出願者は、これから法廷に立ち、人の権利を守る職業に就こうとする者たちだった。その最初の関門で問われたのが、遊郭の営業規則だった。
受験生の中にいた一人の書生が、こう叫んだ——後年、代言人の松尾清次郎が語り残した逸話である。
「己等は人民の権利を伸ばすと云ふ職業に就かうといふ代言人になるのだ、それが女郎屋の規則を試験するなどと、諸君今日の斯んな馬鹿気た試験は止さうではないか」
(東弁百年史p.21-22)
憤慨した受験生たちは、全員が席を蹴って退場した。東京府はその日の検査を中止し、司法省に問題を作り直させて、一週間後にやり直した。合格者は東京でわずか6人、全国でも34人にすぎなかった。
これが、日本の弁護士の出発点である。
代言人という職業は、明治5年の司法職務定制によって生まれた。だが資格の定めはなく、担い手の多くは徳川の世の公事師——訴訟の口利きを業とした者たち——の横すべりだった。過当競争の中で何が起きたかを、明治の法律家・奥平昌洪は容赦なく書き残している。
「無学無識の徒続続この業に従事し……青銭三百文又は玄米一升の報酬にて代言を引受くる者多く遂に三百代言といへる諺を生ずるに至れり」
(東弁百年史p.19所引)
銭三百文で舌を貸す男たち。「三百代言」という蔑称は、こうして生まれた。百五十年を経た今日でさえ、この四文字を知らない日本人は少ない。
免許制を敷いた代言人規則の下でも、扱いは変わらなかった。裁判所からの呼出状は前日か当日に届き、事件名も用件も書かれていない。門をくぐるには門番に名刺を示して認印を受け、帰るときには係官の認印をもらって門番に渡さなければ、何時間でも控室で待たされた。法廷では姓名を呼び捨てにされ、「サガレ」の号令一つで退けられる。当時の評は簡潔である。
「官吏の代言人を視ること猶僕隷を視るごとく」
僕隷——召使いである。
制度そのものが、彼らを守るためではなく、縛るために作られていた。代言人規則は、裁判官に向かって規則の趣旨を述べることは許しても、「其是非及ヒ立法ノ原旨ヲ論議スルヲ得ス」と定めた。法の是非を論じてはならない代言人とは、いったい何のための代言人か。法廷で「国法ヲ誹議シ」官吏を侮った者は、譴責・停業・除名。裁判官と法廷の外で私的に面会して話すことすら、司法省の達で禁じられた。明治13年の規則改正は、さらに全国の代言人を検事の監視下に置き、組合への強制加入を命じた。
後年、弁護士史家の森長英三郎はこう総括している。「代言人に関する最初の法規が、すでに取締法であったのである」。そして——「その後の代言人――弁護士の地位向上は、この取締の網の目をいかに切りとって行くかにかかっていた」。
その網の目に、真正面から体当たりした男がいる。
明治10年、英国から一人の男が帰ってきた。日本人として初めて英国の法廷弁護士——バリスター——の資格を得た星亨である。帰国した星は大蔵卿大隈重信に建言し、自らのために「司法省附属代言人」という椅子を作らせた。建言に曰く——「方今の急務は、人権を拡張し自由を伸張し、国民の品位を上進せしむるに在り……然れども目下代言人の状況を観るに卑陋言うに忍びざるものあり」。代言人の現状は見るに堪えない、ならば自分が変えてみせる、というのである。
星は法廷で姓名を呼び捨てにされると、着席を拒んで言い放った。
「弁護人は刑事裁判を構成する一人である。被告人とは違う。氏名を呼びてするならば本職は決して席に就かない」
(東弁百年史p.34)
誰もが徒歩でくぐる裁判所の門を、人力車に乗ったまま乗り通した。検事の長広舌には「長たらしいお談義は聞かずとも宜し」と切り返した。傲岸といえば傲岸である。だがその傲岸は、代言人を僕隷扱いする官尊民卑の壁に開けた、最初の風穴だった。
明治14年、板垣退助が自由党を結成すると、星亨、大井憲太郎ら代表的な代言人が率先して入党した。星らは京橋鎗屋町に「厚徳館」を設け、民権運動で法に触れた者、資力のない者の弁護を無報酬で引き受けた。集った代言人は、多いときで40余名。明治16年の福島事件——県令三島通庸の圧政に抗した河野広中らの裁判——では、7月19日から8月28日まで30回、連日の公判を闘った。星の弁論は前後3日に及び、傍聴人を感動させた。判決は、河野に軽禁獄7年など被告全員有罪。勝てない闘いだった。それでも、権力に立ち向かう法廷に代言人の姿がある——その光景自体が、この国にとって新しかった。
そもそも刑事法廷に弁護人が立てること自体、闘い取られたものである。明治12年、司法省の磯部四郎が「今ヤ我邦独リ詞訟ニ代言ヲ許サレ未タ刑獄ニ之ヲ許サレス豈大欠典ト雖ハサル可ケンヤ」——民事の訴訟に代言を許しながら刑事に許さないのは大欠典ではないか——との意見書を出したとき、法典起草委員10名のうち8名が、代言人への不信と侮蔑をあらわにして反対した。賛成に回ったのは、お雇い外国人のボアソナードだった。こうして治罪法により刑事弁護が解禁された明治15年の2月、大阪で代言人・松木正守が刺殺される事件が起きる。被害者が代言人だったため、関西で被告人の弁護を引き受ける者は一人もいなかった。
立ったのは、東京の大岡育造だった。同僚たちは弁護料を出し合い、宴を開いて送り出し、横浜まで見送った。縁者の医師は、一振りの短刀を贈った。生きて帰れぬかもしれぬ、という餞である。翌16年7月の公判を経て、判決は無罪。日本における正当防衛無罪の先駆けは、命がけの出張弁護から生まれた。
明治17年、星は演説会での発言を官吏侮辱罪に問われ、重禁錮6月——そして代言人資格を剥奪された。権力と闘う代言人から、権力は資格を奪った。取締の網の目は、まだ破れていなかった。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。国を挙げての祝典の日である。だが宮中の式典の参列者名簿に、代言人の代表はなかった。申し出ても、容れられなかった。
東京の代言人たちは羽織袴に威儀を正し、虎ノ門外の路上に立って、行列を迎えた。式典から締め出された男たちは、その足で柳橋の料亭・柳光亭に集まり、丸提灯に大きく「憲」の一字を書いて、昼も夜も火を入れ続けた。
憲法発布に伴う大赦は、星亨にも及んだ。星は3月15日付で、代言人の資格を取り戻している。
憲法を最も必要とする職業が、憲法の祝典から締め出されていた。ならば、この国に本当の立憲政治を根づかせる仕事は、まだ始まってもいない——路上に立った男たちは、そのことを誰よりも知っていた。彼らの闘いは、ここから始まる。
現代への視線
弁護士の地位も、弁護士自治も、初めからそこにあったのではない。遊郭の規則を問われて席を蹴った男たち、料亭の提灯に「憲」と書いた男たちから、すべては始まった。与えられなかったからこそ、闘って獲た。その記憶を手放したとき、地位は静かに、元の場所へ戻り始める。
出典・注記
- 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
- 東弁百年史=『東京弁護士会百年史』(東京弁護士会・1980)p.18-35, 55-88, 122-136(第一回検査の椿事、三百代言の語源、僕隷の評、代言人規則の取締性、星亨、厚徳館・福島事件、大岡育造、憲法発布式)
- 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.14-28(公事師との連続性、星亨、自由党入党)
- 引用中の「……」は中略を示す。
- 憲法発布式の日付について、『東京弁護士会百年史』の当該箇所は「明治二十二年二月一日」と表記するが、史実の発布日(明治22年2月11日)の誤植とみられるため、本文は2月11日とした。
- 第一回代言人検査の逸話は、代言人・松尾清次郎の後年の談話(東弁百年史p.21-22所引)に拠る。
- 磯部四郎の意見書について、東弁百年史の当該箇所は「明治二年六月」と表記するが、治罪法起草委員への意見書であることから明治12年の誤りと判断し、本文は明治12年とした。